ー甲斐健の旅日記ー

義経が兄頼朝に嫌われたわけとは?

 平家打倒の立役者として、現在も圧倒的な人気を誇っている源義経は、兄頼朝と不和となり、奥州藤原氏の中心都市平泉に逃げ込みました。しかし、頼朝の圧力に耐えかねた奥州藤原氏四代泰衡に襲撃され、衣川関で妻子ともども自害し、わずか31年の生涯を閉じました。ここでは、義経と頼朝の不和の真の原因はなんだったのか。「義経かわいそう!頼朝にくったらしい!」という感情論はちょっと抑えて、考えてみたいと思います。

 義経は、源義朝と常盤(ときわ)との間に生まれました。頼朝とは異母兄弟です。平治の乱(1160年)で義朝が敗れた後、常盤は3人の子(今若、乙若、牛若)を助けるため、平清盛の妾となります。3人の子は、出家する約束でそれぞれ寺に預けられました。牛若(後の義経)は、京の鞍馬寺に入り遮那王(しゃなおう)と名乗りました。しかし、出家を拒み、15歳で寺を抜け出し奥州藤原氏を頼っていきました。藤原氏の頭領秀衡は、これを快く迎えいれました。

 

 その後、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受け頼朝が挙兵すると、義経は兄頼朝のもとへはせ参じます。ここから、義経の軍事の天才としての大活躍が始まります。

 まずは、一の谷の合戦です。木曽義仲(頼朝・義経の従兄弟、一旦京に入るも、その後頼朝軍に攻められ討ち死)に京を追われた平家軍は福原(神戸市)に本拠を構え、一の谷(神戸市須磨区須磨浦)に陣を張っていました。この地は、前面に砂浜が広がっており、後ろは急斜面の山がせまっており、天然の要害でした。対する源氏側の武将は、義経と範頼で、軍目付として梶原景時がいました。義経の戦法は、騎兵集団による奇襲でした。敵に気づかれぬように山側に回り込み、騎馬隊で一気に駆け下り敵の背後をつく戦法です。奇襲とはそもそも敵に気づかれずに不意打ちするから奇襲といえます。そのためには、とにかく敵に気取られぬうちに迅速に行動することが肝要でした。そして、この作戦は当たったのです。平家軍は、総帥の平宗盛が安徳天皇と三種の神器を持って、水軍とともに西へ敗走するしかありませんでした。この戦いののち、紀伊熊野水軍と伊予河野水軍が源氏の味方となり、源氏にも海軍力が整備されました。この事が、後の戦いを源氏有利に導くことになります。

 西に逃れた平宗盛は、屋島(現香川県高松市)に陣取りました。また同族の知盛が関門海峡近くの彦島に陣取り、瀬戸内海の守りを固めていました。義経の次の目標は屋島でした(屋島の戦い)。ここでも義経の策は奇襲でした。屋島の北の瀬戸内海には、平家の水軍が控えていました。義経は、新たに味方になった水軍を使い、嵐の夜にその強風に乗って出撃し、阿波(徳島県)に上陸したのです。そこから陸路屋島に向かい、屋島の宗盛軍の背後をつきました。戦陣の最後尾にあって固く守られていたはずの、内裏の安徳天皇御所を直接狙ったのです。平家軍は大いにあわてて、反撃できず船で逃げるしかなかったといいます。しかし義経は、ここでも安徳天皇と三種の神器を取り逃しました。逃げる途中、平家側から一艘の船が出てきて扇子を立て、「これを射てみよ」と声がかかりました。源氏側からは那須与一が出て、これを見事射落としました。戦時中にて、どちらに神の加護があるかを試す儀式のようなもので、平家側は的がねらいにくい船上において誘いをかけたのですが、外れれば死を覚悟していた那須与一が、見事的を射落としたといいます。

 さて、いよいよ最後は、壇ノ浦の合戦です。これは本格的な海戦でした。ここでも義経は、常識外の作戦に出ます。平家の船の水夫(かこ)や舵取り(かんどり)を、矢で狙わせたのです。当時の武士たちは、水夫や舵取りは非戦闘員であり、戦うのは武器を持った武士同士であるべきという考えを皆が共有していたといいます。非戦闘員を狙うような卑怯な行為を源氏側がするとは、思いもよらなかったのでしょう。平家も、源氏の意表をつき攪乱させようと考え、大型船(唐船)に雑兵を、小型船に高級武士を載せていました。しかし、これはすぐに見破られ、逆に防衛力を弱める結果となったのです。結局、戦いは半日で決着がつきました。敗れた平家の多くや安徳天皇は入水してしまいました。また、宗盛やその子の清宗、建礼門院(徳子:清盛の娘、安徳天皇の母、その後大原の寂光院で隠棲します)は、生け捕られました。しかし、ここで義経は一つ大きなミスをしてしまいます。三種の神器の一つである神剣を奪いそこない、海の底に沈めてしまったのです。 

 頼朝は明らかに、武士が中心となる政権の確立を狙っていました。そのためには、圧倒的な軍事力だけではなく、人事権(賞罰権)や徴税権を朝廷から奪いとる必要がありました。三種の神器を取り戻すことは、その交渉のための絶好の取引材料となると考えていたと思われます。しかし義経は、平家滅亡は成就したのですが、三種の神器の奪還には失敗しました。この事は兄頼朝にとっては手痛いミスに映りましたが、兄弟の仲を引き裂くほどではなかったと思われます。

 最悪だったのは、義経が一の谷の合戦の後に京都へ戻った時、頼朝の許しを得ずに後白河法皇から左衛門尉検非違使(さえもんのじょう けびいし)に任ぜられた事でした。義経を「判官(はんがん)」と呼ぶのはこの官職のためで、これより九郎判官義経と呼ばれるようになりました。これが頼朝の怒りをかいました。頼朝は、朝廷から人事権を奪取したかったが、朝廷はなかなか手放さない。そこで頼朝は、配下の武士たちに、頼朝の推挙または承認なくして官職を朝廷から得てはいけないと固く釘をさしていました。実際、義経とともに戦った範頼が三河守になった時は、頼朝の承認を得ています。それなのに、我が弟がその命を無視して勝手に官職を受けてしまったのです。これでは、他の御家人たちに示しがつかないということになります。武士による政権を目指す頼朝にとって最も根幹のところで、弟の義経が勝手な振る舞いをして、頼朝の構想をぶち壊そうとしていると考えても仕方ないことだったのです。頼朝は、壇ノ浦の合戦の後、義経の代官の任を解き二度と会おうともしませんでした。義経は、なんとか兄の勘気を解こうと、人質にしていた平宗盛父子を連れて鎌倉へ向かいました。しかし、相模国腰越(こしごえ)で足止めをくってしまいます。義経は、自分の心情を兄に理解してもらおうと、手紙を書いて届けさせました(腰越状)。しかし、許してもらえず、むなしく京へ戻ったのでした。

 義経は、兄の真意は最後までわからず、軍目付の梶原景時があらぬことを兄に讒言したためだと思っていたといいます。やがて、心配していたことが起こりました。壇ノ浦から凱旋してきた鎌倉武士のなかに、義経に追随して勝手に官職を受けてしまったものが続出したのです(23人)。頼朝は、これらの者から鎌倉武士団の一員(御家人)としての資格を剥奪し、東国(美濃国墨俣(すのまた)以東)への立ち入りを禁じました。さらに、このきっかけをつくった義経の所領を没収し、刺客まで差し向けたのでした。こうして頼朝と義経の兄弟仲は、完全に裂かれてしまったのです。

 兄との関係修復は無理と悟った義経は、後白河法皇に泣きつき、「頼朝追討」の院宣(いんぜん)を無理やり出してもらいました(文治元年:1185年10月)。さらに、四国、九州の兵粮徴収権(年貢米を取り扱う権利)を得て、西国から兵を募りました。しかし、兵はなかなか集まらなかったといいます。そして、兵を集めるために摂津国大物之浦(だいもつのうら:尼崎市)から船で九州を目指したときに遭難してしまい、多くの優秀な部下を失ってしまいました。これは、「平家の怨霊」の仕業ではないかと人々は噂したといいます。「頼朝追討」の院宣を出した後白河法皇は、今度は鎌倉の圧力により、「義経追討」の院宣を出します(同年11月)。こうして義経は、わずかな手勢を連れて、奥州藤原氏の下へ亡命したのでした。文治3年(1187)2月のことでした。

 義経が平泉に逃げたということは、頼朝にとっては好都合だったと思われます。武士による政権樹立を目指す頼朝にとって、その棟梁は自分でなければならず、奥州にある強大な勢力の藤原氏は、たたいておく必要があったのでしょう。「犯罪人」義経をかくまったことにより、奥州藤原氏を討つ口実が出来たことになります。ここで平泉に不幸が起こります。義経が平泉入りした年の10月に奥州藤原氏三代秀衡が亡くなりました。秀衡は亡くなる直前に遺言し、「泰衡(四代)、国衡(泰衡の異母兄)、義経が協力し、義経を大将軍として鎌倉と対峙せよ」言い残します。泰衡は、秀衡の死から約1年半、この遺言を守り続けました。しかし頼朝は、翌年の2月に後白河法皇に泰衡追討の綸旨(りんじ)を出させました。さらに朝廷からは再三にわたって、泰衡に対して義経追討の命が出されました。これらの圧力に耐えかねて、文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は高舘にあった義経の居館(衣川館)を襲い、義経は妻子と共に自害して果てたとされます。その後頼朝は、平泉に攻め入り、100年の栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡しました。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 井沢元彦著『逆説の日本史』第二章 源義経と奥州藤原氏編(小学館)
  • 高橋克彦著『炎立つ』(講談社)


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