ー甲斐健の旅日記ー

中尊寺/奥州藤原氏初代清衡が、仏国土を夢見て造営した寺院

 中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院です。山号は関山(かんざん)といいます。寺伝では、第三代天台座主(てんだいざす)だった慈覚大師円仁が開山とされます。12世紀になって、奥州の支配者となった藤原清衡が伽藍(がらん)を造営し、大寺院となしたことから、実質的な開基は清衡であるといわれます。

 清衡が「中興」した当時の中尊寺の伽藍の様子は、藤原氏滅亡後に源頼朝が中尊寺や毛越寺の僧侶の代表に提出させたとされる「寺塔已下注文(じとういげのちゅうもん)」に詳しく書かれています。その第一条「関山中尊寺事」によれば、清衡はまず、白河の関(福島県白河市)から外ヶ浜(青森県東津軽郡外ヶ浜町)に至る街道(奥大道:おくだいどう)を整備しました。さらに、その街道沿いの1町(約109m)ごとに笠卒塔婆(かさそとうば)を建てて、金色の阿弥陀像を図絵したといいます。そして、その奥大道の中間点に当たる関山(かんざん)に多宝寺を建立し、多宝塔、釈迦堂、二階大堂(大長寿院)などの堂塔を次々に建立していきました。清衡のこの事業は、奥大道を「祈りの道」として、前九年・後三年の戦いで亡くなった多くの人々を供養して、奥州全土の平和を願ったものであったといわれます。

 多宝塔(多宝寺)は、長治2年(1105:清衡50歳)に建立されました。釈迦如来多宝如来が並座して安置され、本尊とされました。これは天台宗の根本経典『法華経』の第11章見宝塔品(けんぽうとうほん)の場面を具象化したものです。

~ 釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かびました。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえました。その声の主が、多宝如来でした。釈迦は、全世界から分身仏を集合させ、全宇宙を浄化して仏国土となしました。釈迦が宝塔の中に入ると、多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促しました。釈尊は、多宝如来とともに並坐し、三千大千世界(10億個の世界が集まった空間)に向けて永遠の一切衆生の救済を説きました。~

というお話です。しかし、平安時代の日本における多宝塔は、塔を大日如来に見立てて五仏を安置したり、法華教千部を納め、五仏を安置する形式が多く、釈迦如来・宝塔如来並座の形は珍しいものでした(藤原道長が浄妙寺に建立した多宝塔は二仏並座様式)。これは、宇宙の中心、仏国土の中心となる仏塔を建立することを、政治的な理由(天皇制との衝突を回避する)で実行できなかったためといわれます。しかし清衡は、あえて『法華経』のクライマックスの場面を具象化した二仏並座様式を選択したのでした。なおこの様式は、日本仏教では異質なものでしたが、東アジアの他の国では標準的な姿(グローバルスタンダード)であったといわれます。

 二階大堂(大長寿院)は、多宝寺完成の二年後嘉祥2年(1107)に完成しました。巨大な阿弥陀堂で、現在の中尊寺境内にある能楽殿の南西の平地に建てられたと考えられています。このお堂には、本尊として髙さ三丈(約9.1m)の阿弥陀如来立像、脇侍として9体の丈六阿弥陀坐像が安置されています。この時代は、「九品往生思想(きゅうほんおうじょうしそう:生前の行いによって、極楽浄土に生まれ変わるパターンが九通りある)」に基づき、九体の阿弥陀仏を祀るのが一般的でしたが、地獄に落ちた殺人者をも救いの対象とする「十界阿弥陀」の思想に基づく、最初の「十体阿弥陀堂」だったといいます。

 続いて建立されたのが、釈迦堂でした。天仁元年(1108)完成です。半丈六釈迦三尊像を本尊にして、百体の釈迦如来像と四天王像が安置されていました。この当時はたくさんの仏像を造って供養することが流行となっており、千一体の千手観音菩薩像を祀った、後白河上皇建立(長寛2年:1164年)の蓮華王院本堂(三十三間堂)などが有名です。

 以上が、初期の中尊寺の主な堂塔です。ちなみに中尊寺の「中尊」とは、「奥羽のあらゆる地に存在する諸寺諸仏の中尊」という意味と、「人々の理想となる最高のもの=仏、菩薩そのもの」という意味があるそうです。この中尊寺の寺号は、鳥羽天皇の勅願により、釈迦堂が建立され初期伽藍が完成した天仁元年に成立したという見方が有力となっているそうです。

 釈迦堂落慶から16年後、清衡が69歳になった天治元年(1124)8月20日、金色堂の上棟式が行われました。この金色堂は、方18尺(5.48m)で宝形造(ほうぎょうづくり)のお堂で、堂内外のあらゆる場所に金箔が施され、螺鈿(らでん)細工や蒔絵(まきえ)技法をふんだんに使い、荘厳のなかにも極楽浄土を現世に映し出すかのような堂宇(どうう)でした。この金色堂のみが、現在も中尊寺の創建当時の姿を私たちに見せてくれています。また金色堂は、清衡やその後継者の廟堂となり、須弥壇(しゅみだん)下の金箔の棺の中に、清衡、基衡、秀衡の遺体がミイラの状態で安置されています。また、四代泰衡の首級も、秀衡の棺の側に置かれています。

 金色堂落慶の翌年(大治元年:1126年)、白河法皇御願(ごがん)の「鎮護国家大伽藍一区」が落成し、中尊寺伽藍は完成します。71歳になった清衡は、その落成にあたって、紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょ いっさいきょう)五千三百余巻を奉納し、文章博士(もんじょうはかせ:現代の大学教授)藤原敦光の起草になる供養願文(くようがんもん:いわゆる「中尊寺供養願文」)を捧げました。この落成式には、比叡山延暦寺などから僧侶1000人が集まり、盛大に落慶法要が行われたといいます。この供養願文の前半には大伽藍の詳細が述べられ、後半には、清衡がこの伽藍を造営した目的が書かれています。そこには、清衡の本音が鮮明に浮かび上がっているといわれます。前九年・後三年の戦いで死んでいった多くの人々(敵も味方も区別なく)を弔うと共に、戦後30年の間奥州において平和が継続している事を感謝し、さらには、この伽藍の完成で蝦夷の地も仏国土となったことを高らかに宣言するものでした。これらの偉大な事業を完成させ、奥州藤原氏100年の栄華の基礎を築いた清衡は、大治3年(1128)亡くなりました。享年73歳でした。

 実は、供養願文に書かれている「鎮護国家大伽藍一区」が存在していた場所については二つの説があります。一つは、金色堂の南にあったとされる大池跡一帯とする説です。発掘調査で大池の存在は確認されています。しかし、地理的に狭すぎるのではないかという疑問もあがってています。もう一つは、後に毛越寺が建立された場所とする説です。供養願文によれば、本堂の両脇には22間の回廊があり、その先に経楼と鐘楼が建てられ、本堂前面に中島を持つ池が配置されています。この点が、毛越寺の往時の伽藍配置と酷似しているということです。そして、清衡死後の後継争い(基衡と惟常兄弟)で一旦焼失し、二代基衡によって再建され毛越寺となったというのです。いずれにしても、今後の発掘調査による新事実の発見や論争の行方など、興味は尽きません。

 文治5年(1189)、栄華を誇った奥州藤原氏は、源頼朝によって滅ぼされました。平泉に入った頼朝は、その仏教文化の荘厳さに感銘を受けたといわれます。そして中尊寺二階大堂(大長寿院)にならって、鎌倉に永福寺(二階堂)を建立しました。こうして、頼朝により寺院の存続は許されましたが、寺院を整備維持する後ろ盾がなかったことから、寺は次第に荒廃していきました。建保元年(1213)、頼朝の妻北条政子の夢枕に奥州藤原氏三代秀衡の霊が現れ、平泉寺院の修理を強く念願したといいます(『吾妻鏡』より)。この事もあって、鎌倉幕府は金色堂の修理を行い、風雨から建物を守るために覆堂(おおいどう)を設けるなど、伽藍の整備を行いましたが、その後平泉内の寺院は荒廃していきます。

 南北朝対立の時代、南朝方だった北畠顕家が、中尊寺大伽藍落慶時に藤原清衡が捧げた「供養願文」を書写したと伝えられます。現在、供養願文の原本は存在せず、この北畠顕家の書写と同時代の藤原輔方(ふじわらすけかた)の書写だけが残っています。そして建武4年(1337)、中尊寺は大火に見舞われ、金色堂を残しほぼ全焼してしまいました。

 戦国時代には、豊臣秀吉の命により、中尊寺の秘宝である「紺紙金銀字交書一切経(中尊寺経)」数千巻が京に運び出されました。これらの多くは、現在高野山や観心寺(大阪府)に所蔵されているそうです。

 江戸時代になると、平泉は伊達藩領となりました。伊達藩は寺を保護し、荒廃した伽藍の整備を行っていきました。金色堂以外の、山内に点在する堂塔の多くはこの時代に建立されたものです。月見坂(参道)の両側に立ち並ぶ樹齢350年の老杉も、伊達藩が植樹したものと伝えられます。

 明治維新後は、明治42年(1909)に本堂が再建されました。第二次大戦後の昭和25年(1950)に文化財保護法が制定されると、中尊寺金色堂は国宝建造物第一号に指定されました。また同年、金色堂須弥壇に800年もの間安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が行われました。この結果、中央壇に初代清衡、右壇(向かって左)に二代基衡、左壇(向かって右)に三代秀衡の遺体があることが確認されました。また寺伝では、左壇に一緒に安置されていた首級は、秀衡の三男忠衡のものと伝えられていましたが、この時の調査により、藤原四代泰衡のものと断定されました。昭和37年(1962)には、老朽化が激しくなった金色堂の解体修理が始まりました。6年に及ぶ修理作業により、金色堂は創建当時の輝きを取り戻したといいます。完成後は木製の覆堂を他所に移し、コンクリート製の新しい覆堂が造られれました。現在金色堂は、新しい覆堂の中で、ガラス製のしきいに守られ、温湿度が管理された環境で保護されています。

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 中尊寺へは、平泉駅前の道をまっすぐ進み、二つめの信号を右に曲がり国道4号線に入ります。ここから15分ほど歩いたところの左手に、中尊寺参道(月見坂)への入り口があります。平泉市内を複数個所まわる場合は、巡回バス「るんるん」が便利です。一日乗車券(400円:2015年11月現在)で、毛越寺、高舘義経堂、無量光院跡、柳之御所跡などにアクセスできます。運行間隔は30分(4/18~11/3の土日祝日は15分)です。なお、平泉駅から中尊寺までの所要時間は10分です。

 参道入り口から、月見坂と呼ばれる坂を7~8分登ると中尊寺境内に着きます。坂の両脇には、江戸時代に平泉の領主だった伊達藩が植樹した老杉(樹齢300年以上)が立ち並び、荘厳な雰囲気を演出しています。坂の途中左手には弁慶堂が立っています。入母屋造(いりもやづくり)銅板葺の建物で、正面に一間の向拝(こうはい)が施されています。このお堂は、文政9年(1828)の再建とされます。堂内には火伏せ(ひぶせ)の神(火災を防ぐ神)として勝軍地蔵菩薩(本尊)が祀られ、その傍らには、衣川中の瀬で無数の矢を射かけられ、それでも主君義経を護るために立ち往生した姿の弁慶像と義経象(いずれも木造)が祀られています。また、坂の途中の右側には、「東物見」という休憩所があり、その先の分かれ道を右に行くと、広場に出ます。ここからは、束稲山と北上川が眺望できます。またこの広場には、西行法師の歌碑が立っています。「きゝもせず 束稲やまの さくら花 よし野のほかに かかるべしとは」という句です。

 分かれ道から参道に合流してすぐ右手に地蔵堂があります。この地蔵堂の境内にも、西行法師の歌碑があります。また、地蔵堂の向かい側に建つ赤いお堂には道祖神が祀られています。地蔵堂から少し登った左手に薬師堂があります。薬師堂は、藤原清衡が中尊寺中興の際に建立した40余宇の中の1宇とされます。現在見る建物は、旧跡とは別の場所(現在地)に明暦3年(1657)に再建されたものです。入母屋造で正面に一間の向拝が施されています。堂内には、中尊寺開山とされる慈覚大師円仁作の薬師如来像が安置されています。また、脇侍として日光・月光菩薩、薬師如来やその信者を守護するとされる十二神将が祀られています。また、このお堂には、子安観音が安置され、出産や育児のための信仰があるようです。

 薬師堂から少し進んだ右手が本堂です。藤原時代の本堂は建武4年(1337)の火災により焼失しました。その後、万治2年(1659)に、伊達兵部宗勝(だてひょうぶむねかつ)の一関邸の門を移築して、山門としました。これは桟瓦葺(さんがわらぶき)薬医門(やくいもん)形式の門です。現在見る本堂は、明治4年(1909)に再建されたものです。入母屋造、銅板葺の建物で、正面に千鳥破風(ちどりはふ)が施された向拝がついています。本尊の丈六釈迦如来像は、平成25年(2013)に建立、安置された新しい御本尊です。この釈迦仏の両脇には、比叡山延暦寺より分燈され、伝教大師最澄の時代より灯り続けるという「不滅の法灯」がともされています。

 本堂の前の参道をさらに進むと、右手には峯薬師堂(みねやくしどう)、大日堂、左手には不動堂が並んで建っています。峯薬師堂は、元禄2年(1689)に再建されました。方三間、宝形造、銅板葺の御堂です。本尊の丈六薬師如来座像は、カツラの木の寄木造りに漆を塗り金箔を施したもので、現在讃衡蔵(さんこうぞう:宝物館)に保管されています。現在の御堂には、昭和63年(1988)に仏師松尾秀麻師によって作製された薬師三尊像が安置されています。お堂手前では、「め」のお守りが売られています。境内には石造りのカエルがあり、このカエルをなでると、「無事かえる」「福かえる」などの良いことが起きるそうです。峯薬師堂の隣にある大日堂は、宝形造の小さなお堂です。堂内には、本尊の大日如来像が祀られています。峯薬師堂、大日堂と参道を挟んだ向かい側に不動堂があります。現在の建物は、昭和52年(1977)建立です。堂内に安置されている本尊の不動明王像は、天和4年(または貞享元年:1684)仙台藩主伊達綱村が造らせたものといわれます。毎月28日の不動尊の縁日では、護摩焚き(ごまだき)が行われているそうです。

 さらに参道を登っていくと、右手に鐘楼、阿弥陀堂、弁財天堂が並んで建っています。鐘楼は、建武4年(1337)の火災で焼失し、その後再建されたものです。現在吊るされている梵鐘は、康永2年(1343)、金色堂別当頼宗の発願により鋳造されたといわれます。その銘には、中尊寺の創建や建武4年の火災の事が記され、歴史を伝える貴重な資料となっています。現在は撞座(つきざ)の消耗が激しく、その音色を聴くことはできないそうです。阿弥陀堂は、本尊は阿弥陀如来ですが、現在堂内には、向かって右手に小槌を振り上げた大黒天、左手には蔵王権現(蔵王権現)が祀られています。弁財天堂は、寄棟造(よせむねづくり)、茅葺(かやぶき)の建物で、正面に一間の向拝がついています。宝永2年(1705)、伊達家の寄進により建立されたと伝えられます。弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立されています。堂内には、弁財天十五童子像が安置されています。

 鐘楼、阿弥陀堂、弁財天堂と参道を挟んだ向かい側に、讃衡蔵(さんこうぞう)、金色堂があります。手前にある讃衡蔵は、奥州藤原氏が残した文化財3,000点余りを収蔵する宝物館です。昭和30年(1955)に開館しました。現在の建物は、開山1150年を記念して、平成12年(2000)に改築されました。平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の遺体の副葬品などが納められています。入館すると、まず、本坊に安置されていた木造阿弥陀如来坐像、峯薬師堂に安置されていた木造薬師如来坐像、さらにもう一体の木造薬師如来坐像3体の巨像が迎えてくれます。中尊寺教とも呼ばれる紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)は、一行ずつ金字と銀字で交互に書写されているもので、他に類を見ない珍しいものといわれ、その経典の美しさには目を見張るものがあります。讃衡蔵には、北畠顕家が書写したとされる「中尊寺落慶供養願文」など、他にもお宝が満載に展示されています。

 金色堂は、天治元年(1124)8月に建立されました。現在は、鉄筋コンクリート造りの覆堂で保護され、ガラス張りで温湿度管理された部屋の中に納められています。清衡が中尊寺を中興した当時の姿を現在に伝える唯一の建造物です。宝形造(ほうぎょうづくり)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺き(こがわらぶき)の建物です。堂内外のあらゆる部分(木瓦部除く)には漆塗りの上に金箔が張られています。中央の須弥壇内には初代清衡、向かって左(右壇)には二代基衡、右(左壇)には三代秀衡の亡きがらが納められています。また、秀衡の棺の側には、四代泰衡の首級が納められているといいます。それぞれの須弥壇の上には、阿弥陀三尊像(脇侍は観音勢至菩薩)、二天立像(持国天、増長天)及び六体の地蔵菩薩立像が安置されています(ただし、右壇の増長天像は失われています)

 金色堂の装飾は大変豪華で、全面に貼られた金箔と合わせて、さながラ浄土の世界が目の前に演出されているかのようです。特に須弥壇や四本の巻柱(まきばしら:干割れを防ぐため、ヒバ材の八角柱の側面にかまぼこ上の杉材を貼り付けて円柱にしたもの)に施された、夜光貝を使った螺鈿(らでん)細工は光彩を放っています。各柱は、螺鈿で装飾された宝相華(ほうそうげ)の細い帯で四つの区画に分けられ、それぞれの区画に、蒔絵(まきえ)の菩薩像が4体ずつ描かれています。四本の柱で計48体の菩薩像が描かれていることになります。須弥壇の側面には、金工により施された孔雀や宝相華の装飾があります。また、中央壇の須弥壇の高欄の角材には、縁取りのために象牙を線状に細く切りだして貼り付けた装飾が施されています。この象牙はアフリカゾウのものでした。また螺鈿の材料となった夜光貝は、南方の海でしか収穫できないものでした。この事から、奥州藤原氏の交易の範囲は、宋(中国)を含め南方の諸地域にまで及んでいたことが推測できます。

 金色堂を出て、少し歩くと経蔵があります。間口が3間、宝形造、銅板葺の建物です。現在見る建物は、創建時の古材を用いて鎌倉時代に再建されたものと伝えられます。堂内には、平安時代の彩色文様が確認されます。本尊は騎師文殊菩薩像(きしもんじゅぼさつぞう)です。経蔵から旧覆堂に向かう途中に「奥の細道碑」と松尾芭蕉の銅像があります。ここで芭蕉が詠んだ句が、

   五月雨の 降のこしてや 光堂 でした。

 芭蕉の銅像の先に旧覆堂があります。金色堂は、建立当初は屋外に建っていたのですが、建立から数十年後に、建物を風雨から守る簡単な施設が造られたといいます。その後、正応元年(1288)、鎌倉将軍惟康親王(これやすしんのう:鎌倉幕府7代将軍)の命で、金色堂を完全に覆い風から守る覆堂が造られました。昭和40年(1965)に、鉄筋コンクリート造りの新覆堂が建設されるまでの677年もの間、金色堂を守り続け、現在に伝えてくれた功労者と言えます。



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