ー甲斐健の旅日記ー

寛永寺/江戸の町の鬼門(北東)に造営された徳川将軍家の菩提寺

 寛永寺(かんえいじ)は、東京上野にある天台宗関東総本山の寺院です。山号は東叡山(とうえいざん)といいます。京都の町の鬼門(鬼が出入りする方角、北東)を守るために建立された比叡山延暦寺に対して、「東の比叡山」ということで東叡山と呼ばれています。さらに寺の名前(寺号)も、延暦寺と同様に、創建時の元号を使用することが許され、寛永寺と命名されました。開基は徳川3代将軍家光、開山は家康・秀忠・家光と三代にわたって将軍の帰依(きえ)を受けた天海僧正です。また、本尊は薬師如来です。

 寛永寺は、徳川3代将軍家光の時代の寛永2年(1625)に、現在の上野公園の敷地に創建されました。本坊をはじめとしていくつかの堂宇(どうう)が建立されていきましたが、中核となる根本中堂(こんぽんちゅうどう)が建立されたのは創建から70年以上たった元禄11年(1698)のことでした。この時惣奉行として工事を取り仕切ったのが、5代将軍綱吉の側用人(そばようにん)として活躍していた柳沢吉保です。

 初代住持の天海がなくなったのちは、京都山科の毘沙門堂門跡(もんぜき)の公海が後を継ぎ、後水尾天皇の第3皇子が3代目の住持となりました。その後幕末まで、寛永寺住持職は皇子または天皇の猶子が務めることとなり、彼らは「輪王寺宮」と呼ばれ徳川御三家と肩を並べるほどの格式と権威を併せ持っていたといいます。もしも、皇室をまつりあげて幕府に対する反を起こす者あれば、関東側で「輪王寺宮」を新天皇として擁立して対抗し、朝敵となることを避けるという「安全装置」として考えていたという説もあります。実際、幕末の上野戦争から逃れて会津に入っていた当時の輪王寺宮(明治天皇の叔父)を、旧幕府側の奥羽越列藩同盟が天皇として推戴し、「東北朝廷」をつくろうとしたという話があります。真偽のほどは不明ですが。

 江戸時代後期には広大な敷地面積を持ち、子院も36院(現存は19院)あったといいます。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺境内となっていました。しかし、慶応4年(1868)に起きた上野戦争の戦場となったため、根本中堂はじめほとんどの堂宇は焼失してしまいました。寛永寺の再興は明治12年(1879)から始まりました。川越の喜多院(天海が27世住職だった寺)の本地堂を移築して根本中堂としました。寺の規模は大幅に縮小されましたが、旧境内の多くの部分は上野公園となり、博物館、美術館、動物園などがつくられて、市民の憩いの場所となっています。

 寛永寺は、港区芝公園の増上寺と並んで徳川家の菩提寺です。徳川家墓所には、家綱(4代)、綱吉(5代)、吉宗(8代)、家治(10代)、家斉(11代)、家定(13代)の6人の将軍が眠っています。将軍家綱と綱吉の霊廟は第二次世界大戦の空襲で焼失しましたが、勅額門や水盤舎、奥院の唐門や宝塔は現存しています。徳川家霊廟は原則非公開ですが(家綱霊廟の勅額門だけは、外から見えます)、予約により特別参拝が可能です(月に2,3回)。

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 寛永寺の堂宇(どうう)や史跡は、上野公園内に点在しています。代表的なものを訪ね歩いてみましょう。

 まずは根本中堂です。JR鶯谷駅南口を出て、寛永寺霊園を右手に見ながら数分ほど歩いたところにあります。もともと、寛永寺根本中堂は現在の東京博物館前の噴水の場所に建っていました(元禄11年<1698>)。しかし、幕末の彰義隊(しょうぎつぃ)決起による上野戦争の戦禍で焼失してしまいました。その後、明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂(寛永15年<1638>建造)を移築再建したのが、現在の根本中堂です。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)で、正面に3間、背面に1間の向拝(こうはい)が施されています。本堂正面に掲げられている勅額の「瑠璃殿(るりでん)」の文字は、東山天皇(在位1687~1709)の宸筆(しんぴつ)といわれます。元禄11年に建立されたもともとの根本中堂に掲げられていたもので、上野戦争の戦火を奇跡的に免れたのだそうです。なお、元禄11年(1698)に江戸で起きた「勅額火事」の「勅額」は、寛永寺根本中堂にに掲げられた額のことです。同年8月、寛永寺の根本中堂が落成し、9月3日に落慶法要が執り行われました。その3日後、東山天皇宸筆の勅額が江戸に到着した日に出火したことから、「勅額火事」と呼ばれるようになりました。この大火により寛永寺も一部類焼しましたが、根本中堂は無事でした。

 堂内には、本尊の薬師如来、脇侍として日光菩薩、月光菩薩(薬師三尊像)が祀られています。薬師如来像は、伝教大師最澄が自ら製作したものといわれ、国の重要文化財に指定されています(秘仏)。本堂の裏手にある書院(当時は子院・大慈院)には、鳥羽伏見の戦いで新政府軍に追い詰められた15代将軍徳川慶喜が謹慎・蟄居したという部屋(葵の間)があります。根本中堂内や葵の間は通常非公開ですが、月に2,3回行われている特別公開で参拝が可能です(予約が必要です)。

 根本中堂境内にあるほかの建物や史跡を紹介します。

鐘楼(しょうろう)

 山門のわきにあります。つるされている梵鐘は、徳川4代将軍家綱の一周忌(延宝9年<1681>)に奉納されたものです。もともとは家綱の霊廟前の鐘楼につるされていましたが、明治になって、根本中堂の鐘として現在の地に移されました。現在も除夜の鐘としてつかわれているそうです。この鐘の作者は、江戸の鋳物師・椎名伊予守吉寛で、もう一つの徳川家の菩提寺・増上寺の鐘も彼の作です。

了翁禅師(りょうおうぜんじ)座像と塔碑

 寛永7年(1630)、出羽国雄勝郡に生まれた禅師は、幼いころから仏門に入り、諸国をめぐっていました。ある時、霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」(痛み止め・気付け・毒消しなどに用いられた丸薬)という薬をつくり、不忍池付近で薬屋を営むと、これが評判となり莫大利益を得ました。資産家よなった了翁は、江戸大火時の難民救済に私財を投じたり、寛永寺に勧学寮(図書館)を設置して教育振興に力を尽くしました。この功績が認められ、輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を与えられたといいます。 堂内に安置されている了翁禅師の坐像は、元禄5年(1692)、了翁禅師が55歳の時に建立されたものです。

旧本坊鬼瓦、根本中堂鬼瓦

 建物の修復時に古くなった鬼瓦が新しく作り替えられました。その古い鬼瓦が境内に展示され、間近に見ることができます。

慈海(じかい)僧正墓石

 慈海僧正(寛永元年~元禄6年<1624~83>)は、学問に秀でた僧として寛永寺の子院である凌雲院の住職となり、寛永寺一山を統括する学頭(輪王寺宮代理)を務めた人です。輪王寺宮の法義(仏法の教え)や学問の師でもありました。境内にある墓石は、蓮華座上に舟形の光背(こうはい)を背負った聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像の姿をしており、右側に「當山學頭第四世贈大僧正慈海」、裏面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と彫られています。非常に珍しい墓石の形をしています。

尾形乾山墓碑・乾山深省碩(しんせいせき;顕彰碑のこと)

 尾形乾山(けんざん)は、江戸時代中期を代表する画家のひとり・尾形光琳(こうりん)の実弟です。乾山は京都屈指の呉服商雁金屋(かりがねや)の三男に生まれました。京都では陶工をしていました。「乾山」の由来は、陶芸窯を築いた鳴滝の地が京都の乾(いぬい)の方角(戌亥:北西)にあったことによります。正徳・享保年間(1711~35)に、寛永寺の住持となった輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開いて陶器造りを再開しました。その作品は「入谷乾山」と呼ばれ評判となりました。その後、乾山は江戸を離れることなく、寛政3年(1743)81歳で亡くなりました。遺体は東京都豊島区にある善養寺に葬られました。

 根本中堂から南東に位置し、国立博物館の東、国立科学博物館の北側に開山堂があります。開山堂は、寛永寺開山の慈眼大師(じげんだいし)天海僧正がなくなった翌年の正保元年(1644)に創建されました。天海僧正と天海僧正が尊崇していた慈恵大師(じえだいし)良源僧正(比叡山延暦寺中興の祖、「おみくじ」の創始者ともいわれる)が祀られています。開山堂は、二人の大師が祀られていることから、「両大師(りょうだいし)」とも呼ばれています。創建時の建物は、幕末の上野戦争、関東大震災、東京大空襲を乗り越えてきたのですが、平成元年(1989)の火災で残念ながら焼失してしまいました。現在ある建物は平成5年(1993)に再建されたものです。入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。開山堂境内には、山門、阿弥陀堂、地蔵堂などの建物もあります。

 開山堂に隣接した輪王寺に、「黒門」と呼ばれる古い門があります。寛永2年(1625)、住持の住まいとなる本坊の表門として建立されました。切妻造(きりつまづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)薬医門(やくいもん)です。度重なる戦火や災害を乗り越え、現在も往時の姿を見せてくれています。もともとは、現在の東京博物館の敷地内にあったのですが、関東大震災後に現在地に移転されました。なお、門扉には上野戦争時の弾の跡が残されており、当時の戦闘の激しさを今に伝えています。

 上野公園にある動物園の敷地内に、上野五重塔があります。寛永8年(1631)、徳川幕府の重臣・土井利勝(のちに大老となる)が、寛永寺の境内に上野東照宮を造営した際に建立したのが最初です。しかし、寛永16年(1639)、花見客の失火により焼け落ちてしまいました。現在見る建物は、同年に再建されたものです。幾多の戦禍や震災を乗り超えて、往時の姿を見せてくれています。高さは、先端の宝珠を入れると36メートル(建物のみなら32メートル)あり、第一層から第四層までは本瓦葺(ほんがわらぶき)、第五層のみ銅板葺(どうばんぶき)となっています。初層の軒下にある蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻があり、四隅には龍の彫刻が施されています。初層内部には、心柱を大日如来に見立てて、釈迦(しゃか)薬師(やくし)阿弥陀(あみだ)弥勒(みろく)の四仏が安置されています。 この東照宮五重塔は、明治政府がとった神仏分離策のために廃棄されるところでした(五重塔は仏教施設であるため、全国の神社が保有する五重塔の多くが廃棄された)。しかしこの時、寛永寺が手をあげ、「寛永寺境内にあるのだからこの五重塔は寛永寺の所属である」という理屈(?)で国に訴えました。結局、それが認められ存続することができたといいます。東照宮五重塔は、寛永寺五重塔と名を変え、生き残ったのです。その後、昭和33年(1958)、五重塔は東京都に寄付され現在に至っています。旧寛永寺五重塔は、平成25年(2013)7月から1年かけて改修工事が行われ、初層の彫刻なども塗り直しが行われ、彩色鮮やかによみがえりました。

 上野公園の南側、西郷隆盛銅像のすぐ北に清水観音堂(きよみずかんのんどう)があります。京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で、寛永8年(1631)天海僧正によって建立されました。京都清水寺に安置されていた千手観世音菩薩像(せんじゅかんぜおん ぼさつぞう)が天海僧正に奉納されたことから、清水寺と同じ舞台造りのお堂をつくったといいます。当初は、現在地より100メートルほど北の擂鉢山(すりばちやま)に建てられましたが、寛永寺の根本中堂が現在の上野公園の噴水広場のあたりに建立されたのちの元禄7年(1694)に、現在地に移築されました。その後戦火や震災を乗り越え、往時の姿を現在の私たちに見せてくれています。平成2年(1990)から平成6年(1994)まで修復工事が行われ、元禄移築時の状態が再現されたといいます。建物は正面5間、単層入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)です。不忍池(しのばずのいけ)に臨む正面の舞台造りは、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重にも描かれるほど有名どでした。

 堂内に安置されている千手観世音菩薩像は、日本の浄土教の租といわれ、のちの法然や親鸞に多大な影響を与えたといわれる平安時代の僧・恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)の作と伝えられ、秘仏となっています。御開帳は年に1日で、2月の初午(はつうま:毎年日にちが異なるので要確認です)法楽の日となっています。また、本尊の右の脇侍には子育て観音が祀られています。子供を持つ人々の様々な願いをかなえてくれるという信仰があります。子宝を授かった両親が、子供の無事な成長を願って奉納した身代り人形が、多数供えられています。毎年9月25日には、奉納されたに人形を供養する行事があるそうです。



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