ー甲斐健の旅日記ー

安土城址/天下布武に願いを込めた織田信長の権威の象徴

 安土城は、安土山山頂(現・滋賀県近江八幡市安土町)にあった、織田信長によって築城された城です。天下統一の総仕上げの段階にあった信長にとって、天下人としての権威を人々に示す象徴的な建造物であったといわれます。現在、天守閣や本丸などの建造物は消失してありませんが、天守閣に至る石段や、石垣、建造物の礎石などが修復・保存されています。

 安土城の築造が始まったのは、天正4年(1576)1月でした。信長は、丹羽長秀を総普請奉行に据え、地上6階、地下1階(外見は五層)、天守の高さが約32mの壮大な城の建造を命じました。そして3年4か月を経て、天正7年(1579)5月に安土城は完成しました。

 信長が安土城を築城した目的は、岐阜よりも京に近く、北陸方面から京へ至る街道の要衝に築城することで、越前・加賀の一向一揆や越後の上杉謙信の侵攻に備えるとともにに、「信長が天下人である」ということを人々に印象付け、天下布武(てんかふぶ)実現を目指す信長の権威の象徴とする事が真の目的だったといいます。信長は、天守閣を住居とし、家族を本丸周辺に、重臣たちを安土山麓に住まわせていました。

 しかし、信長の天下統一事業は完遂することはありませんでした。天正10年(1582)、最も信頼していたはずの重臣・明智光秀の謀反により、信長、信忠父子は討ち取られてしまいました。この本能寺の変ののち、安土城は明智秀満(光秀の娘婿)が守りを固めていましたが、山崎の戦いで光秀が秀吉に敗れると、秀満も安土城を退却しました。その際に天守と本丸周辺を焼失したといいます(この原因には諸説あります)。その後、本能寺の変で憤死した信長・信忠父子の後継を定めた清州会議において、織田秀信(信忠の嫡男、幼名三法師)を城主にし、織田信雄(のぶかつ:信長の二男)を後見人とすることにより安土城を再興することが決まりました。しかし、信長の後継を目指す秀吉がこの約束を反故にしました。天正13年(1585)、甥の秀次に八幡山城(安土城の隣地:現近江八幡市)を築城することを許し、安土城の残った建物と城下町を移築することにしたのです。信長が自らの権威の象徴とした安土城は、この世から消え去ってしまったのです。

 現代になって大正時代に、安土城址を修復・保存しようとする動きが盛んになってきました、そして、昭和25年(1950)安土城址は特別史跡に指定され、10年後の昭和35年(1960)から城跡修理が始まりました。この修理作業は昭和50年まで継続され、現在に至っています。

 なお、平成4年(1992)のセビリア万国博覧会では、復元された安土城天守の一部(5,6階部分)が出展されました。この復元天守は、安土城信長の館(安土町)で見ることができます。また、三重県伊勢市にある伊勢安土桃山文化村では、原寸大に復元された安土城天守閣を見ることができます。

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 安土城址のある安土山は、JR東海道本線(琵琶湖線)安土駅から北東に向かって徒歩約25分のところにあります(安土山入り口まで)。安土駅前にレンタサイクルがあるので、これを利用すると便利です。

 入山入り口の関所で入山料(700円:2017年4月現在)を払って、いよいよ安土山に登っていきます。入り口を入ると、正面に大手道の石段が見えます。幅が6mの広い石段ですが、段差が大きく結構きついです。少し上ったところの左手に「伝・羽柴秀吉邸跡」、右手には「伝・前田利家邸跡」があります。どちらの邸も大手道正面の守りを固める重要な位置にあります。前田邸は、急な傾斜地を造成して建てられており、建物が数段に分かれて築造されています。羽柴邸は、上下2段で構成されています。上段には、主人が生活する屋敷がありました。大手道に面して高麗門(こうらいもん)が設けられ、そのわきに重層の隅櫓(すみやぐら)が建ち、防備を固めていました。門を入ると左手に台所があり、その先の主屋の玄関を入ると、主人が住む主殿があったとみられています。下段には、櫓門(やぐらもん:二階部分が櫓)が建ち、馬6頭を飼うことのできる大きな厩があったと考えられています。

 さらに大手道の石段を上ると、右手に摠見寺(そうけんじ)があります。安政元年(1854)の火災で本堂など主要な建物が焼失してしまった後、徳川家康邸跡と伝えられるこの地に再建されました。現在でも、土・日に限って拝観が可能だそうです。

 さらに大手道の石段を登っていくと、それまで直線的だった道がジグザグに曲がった道に変わります。このジグザグ石段を登りきると踊り場のような場所に到達し、正面に「伝・織田信忠邸跡」が見えてきます。ここから道なりにまっすぐ進むと、摠見寺跡や仁王門に出ますが、まずは、右に曲がって本丸・天守方面に向かいます。

 尾根道と呼ばれる石段を登りきると、黒金門跡に出ます。黒金門は、安土城中枢部(本丸、二の丸、三の丸、天守)への主要な入り口の一つです。平成5年(1993)の発掘調査により、天守とともに黒金門も火災に遭ったことが明らかになりました。この一帯は、標高180mに達します。黒金門跡を通って城内に入り、左側に高い石垣を見ながら石段を上ると正面が二の丸跡、さらに右に進むと本丸跡に出ます。昭和16年と平成11年の二度の発掘調査により、本丸跡で119個の碁盤目状に配列された礎石が発掘され、それらの礎石には火災によるとみられる焼損の跡がありました。また、礎石の配列状態から、この建物は中庭を挟んだ3棟構成であり、天皇の日常の居所である清涼殿(せいりょうでん)とよく似た構成であることが判りました。実現はしませんでしたが、天皇の安土城行幸計画のために信長がわざわざ造営した御殿だったのかもしれません。

 本丸跡からさらに石段を上ると、天守台跡に出ます。安土城天守は地上6階地下1階の高層建築でしたが、現在は礎石の一部が残されているのみです。実際の天守台の広さは、現在の二倍半近くあったとみられていますが、石垣上部の崩壊が激しく、現状の姿になってしまったということです。この天守台跡付近からの眺望は素晴らしく、琵琶湖や比叡山方面が一望できます。

 天守台跡から下って、「伝・織田信忠邸跡」近くの分かれ道を右に曲がり、摠見寺跡に向かいます。摠見寺は、信長が安土城内に創建した臨済宗妙心寺派の寺院です。天守と城下町を結ぶ道沿いに建てられ、城内を訪れる人々の多くがこの境内に立ち寄って、お参りをしたと伝えられています。摠見寺は、本能寺の変直後の安土城火災の際は類焼を免れましたが、江戸末期の寛永7年(1854)、三重塔や仁王門などを残して伽藍(がらん)の主要部分を焼失してしまいました。その後は、大手道に面する徳川家康邸跡に再建され、現在に至っています。現存する三重塔は、享徳3年(1454)に建立されたもので、摠見寺創建時に、長寿寺(現・滋賀県湖南市)から移築されたものです。また仁王門 は、元亀2年(1571)に建立され、やはり摠見寺の創建時に柏木神社(現滋賀県甲賀市)から移築されたもので、入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の楼門です。両脇に安置されている金剛力士像は室町時代の作と伝えられます。



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