ー甲斐健の旅日記ー

田沼意次ゆかりの地・相良を訪ね歩く

 田沼意次(おきつぐ)と言えば、徳川幕府9代将軍家重および10代将軍家治のもとで側用人および老中として権勢をふるい、数々の幕政改革を手掛けた政治家です。一方では、「賄賂政治家」として酷評され、田沼=悪人という風説も根強く残っています。田沼意次が本当に悪人だったのか、田沼が行った幕政改革がどんなものだったのかについては、『コラム:田沼意次/「賄賂の帝王」と呼ばれた田沼意次が、後世に残した遺産とは?』を参照していただくことにして、ここでは、意次ゆかりの地である相良(さがら)の紹介をします。この地は、もともと静岡県榛原(はいばら)郡相良町と称していました。静岡県中部に位置する、駿河湾を望む海沿いの町です。平成の大合併で隣の榛原町と合併し、現在は牧之原市相良となっています。

 さて、9代将軍家重の御小姓としてスタートした意次は、将軍家重の信頼をかちとり順調に出世して、宝暦8年(1758)40歳にして、ついに大名となりました。この時拝領したのが、相良1万石です。とはいっても、幕府の要職にあった意次にとっては、気軽にお国入りとはいかなかったようで、相良藩主だった30年の間に地元に帰ったのは、たった2回だけだったといいます。相良城を築城したのも、藩主となって22年後の安永9年(1780)4月の事でした。その相良城も、意次が失脚したのちに権力者となった松平定信の命で、完膚なきまでに打ち壊されてしまいました。現在は、相良城二の丸跡の土手に植えられたクロマツの樹と、相良城築城の際に、仙台藩主・伊達重村が寄進してつくられたとされる石垣(「仙台河岸」)が、当時の面影をわずかに残しているだけです。一方、相良には意次ゆかりの寺院もあります。それでは、相良の町を散策してみましょう。

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 相良への公共交通機関のアクセスは、静岡駅前から特急静岡相良線(静鉄バス14番乗り場)に乗って終点の相良営業所で降りる(所要時間64分)か、東海道本線藤枝駅南口から藤枝相良線(静鉄バス5番乗り場)に乗って終点の相良営業所で降ります(所要時間65分)。

牧之原市史料館

 静鉄バス相良営業所から北西に500mほど歩いたところに、牧之原市史料館があります。牧之原市役所相良庁舎の隣です。入母屋造(いりもやづくり)の白い建物です。この地は、相良城の本丸跡だったといいます。館内では、石器時代から人が住んでいたとされる相良の歴史を学ぶことができます。また、相良城主だった田沼意次ゆかりの史料が数多く展示されています。主なものは以下の通りです。

  • 田沼意次肖像画(鈴木白華<はくが:浜松出身の画家>が謹写したもの、原画は消失)
  • 田沼意次上奏文(老中失職時に将軍に宛てたもの)
  • 相良城落成の祝宴の際に使われた「米びつ」や「刀だんす」
  • 田沼意次が大江八幡宮に寄進した馬具および神輿
  • 田沼意次が貨幣改革のために発行した南鐐(なんりょう)二朱銀などの古銭
  • 聖武天皇勅書(レプリカ:本物は平田寺所蔵;聖武天皇が天下泰平・万民和楽を祈って奈良七大寺へ寄進した勅書)
  • 菱垣・樽廻船の模型(1/10)
  • 稲荷山古墳からの出土品

 田沼意次ゆかりの地をめぐるスタート地点として、ぜひ立ち寄ってみたいスポットです。

相良城二の丸のマツ

 牧之原市史料館の北西隣にある相良小学校の校門わきに、相良城の面影を残す松の木が残っています。この地は相良城二の丸の土塁跡だったので、「相良城二の丸のマツ」と呼ばれています(牧之原市指定文化財)。もともと12本あったのですが、うち2本が腐朽が激しく伐採されて、現在は10本となっています。しかし、伐採された幹に奇跡的に苗が残っていたことから、伐採された跡に植樹されています。

田沼街道

 牧之原史料館のすぐそばに、「田沼街道起点」の碑と「湊橋」の石碑があります。相良城下から大井川を渡り、東海道の宿場町だった藤枝宿まで達する約7里(約28㎞)の街道が「田沼街道」と呼ばれていました。意次が領主時代に、拡幅整備した街道です。当時、大井川を渡るには、東海道の島田・金谷の渡ししか許されていなかったのですが、意次が動いて、田沼街道からも大井川の渡河が許されたといいます。地元民は皆、大いに感謝したと伝えられています。現在でも相良と藤枝を結ぶ重要な交通路となっており、定期バスも運行しています。

仙台河岸(せんだいがし)

 二の丸のマツとともに相良城の数少ない遺跡が「仙台河岸」です。仙台河岸は、牧之原市史料館から東に200mほど歩いたところにあります。町中を流れる萩間川(はぎまがわ)に架かる湊橋(みなと橋)の南西にあります。明和4年(1767)、田沼意次が相良城築城に取り掛かった際に、仙台藩主・伊達重村が寄進した石垣で作られました。当時は、城内と外海を結ぶ軍事上重要な船着き場だったようで、千石船(米千石を詰めるほどの大型帆船)なども横付けできたといわれます。現在残っているのは、その一部の石垣(約45mほど)です。

根上り松

 田沼意次ゆかりのものではありませんが、仙台河岸から南に400mほど歩いたところに「根上り松」があります。NTTの建物の東、相良保育園の北側にあります。根上りの松とは、何らかの理由で根の部分が地上に飛び出してしまった松の事です。有名なものとしては鳴門の根上りマツ(1999年に枯死して今は切株のみが残る)や和歌山市の根上り松群などがあります。相良の根上り松は、宝永4年(1707)10月の大地震の後に発生した大津波によって、根元の土が洗い流されて現在のような姿になったといわれています(この大地震の49日後に、富士山の大噴火が起こっています)。元は5本あったのですが、うち3本は枯れてしまい、2本のみとなりました。大きい方の松は、地表から3~4mも根がせり出していて、「二階マツ」と呼ばれています。根が地上に出ても樹勢が衰えないのが、クロマツの特徴だそうです。昭和29年(1954)に静岡県の指定天然記念物に指定されました。

浄心寺

 田沼意次ゆかりの寺院を紹介します。まずは浄心寺です。浄心寺は山号を長勝山と称し、日蓮宗の寺院です。根上りの松から南西に200mほどのところにあります。この浄心寺には、なんと平賀源内の墓石があります。源内は江戸中期の人物で、本草学者(医薬に関する学問)、地質学者、蘭学者、医者、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家とマルチナな才能を発揮した男です。特に、長崎で手に入れた、破損したエレキテル(静電気発生装置)を基に、これを模造複製して江戸の市民を驚かせたことは有名な話です。源内は晩年、発作的に人を殺めてしまい、小伝馬町の牢に入れられ獄死したというのが定説になっています。ところが、源内の有力なパトロン(経済的支援者)だった老中・田沼意次が、ひそかに脱牢させ、相良近辺に匿わせたというのです。そして源内は天寿を全うし、この浄心寺に眠っているといいます(真偽のほどはわかりませんが)。なお、浄心寺山門は、寛政元年(1789)に再建されたもので、欄間には竜が昇天する様子を表現した、透かし彫りの彫刻があります。

大澤寺(だいたくじ)

 浄心寺から南西に300mほど行ったところに大澤寺があります。浄土真宗大谷派の寺院で、山号は釘浦山(ていほざん)と称します。本尊は阿弥陀如来です。永禄元年(1558)、浄了によって創建されたと伝えられます。その後、戦乱によって何度か焼失しますが、徳川家康の庇護を受けて再建しました。しかし、安永7年(1778)に、またまた火災により焼失してしまいます。その後、天明8年(1788)に田沼意次が失脚して相良城が廃城となると、その用材を活用して大澤寺の再建が始まりました。現在見る本堂は、相良城の用材を使って寛政5年(1793)に再建されたものです。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺(さんがわらぶき)平入(ひらいり)で正面に1間の向拝(こうはい)が施されています。また随所に、菊、龍、ウサギなどの彫刻が施されており、江戸中期の寺院建築として貴重な遺構です。市の指定文化財となっています。本尊の阿弥陀如来立像は、室町時代末期の制作と推定され、元禄年間(1868~1704)に焼津の漁師の網にかかり奉納されたといいます。

 田沼意次ゆかりの地・相良も、今はその面影をしのぶ場所は少ないですが、落ち着いたいい町でした。



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