ー甲斐健の旅日記ー

奥州藤原氏初代清衡が「仏教都市」平泉建設に託した思いとは?

 奥州藤原氏100年の栄華の基礎を築いた藤原清衡(きよひら)は、天喜四年(1056)、奥州の地に生まれました。当時の奥州は、奥六郡(岩手県中南部)を治める安倍氏と、仙北三郡(秋田県横手盆地周辺)を治める清原氏という二大豪族が支配する地でした。ところが、永正6年(1051)に始まった前九年の戦いでは安倍氏が滅亡し、永保3年(1083)に始まった後三年の戦いでは清原氏が滅亡しました。この奥州の戦乱には、源氏一族の東北進出という野望が絡んでいたといいます(前九年・後三年の戦いの詳細はこちら)。結果、この戦いで生き延びたのが、当時清原氏の一員となっていた清原清衡でした。清衡は、奥州の実質的な支配者となり、清原の姓を捨てて父経清(つねきよ)の姓に戻し、藤原清衡と名乗りました。

 康和年間(1099~1104)清衡は、江刺郡豊田から、南方約22kmにある衣川を超えた平泉に宿館(宿所と政庁を兼ねた館)を移します。この館は、平泉館(ひらいずみのたち)と呼ばれていました。現在その遺跡が平泉町東部に残っており、柳之御所遺跡と呼ばれています(柳の御所遺跡の詳細はこちら)。さらには、衣川の南に位置する関山の山上に、天台宗寺院中尊寺(中尊寺の詳細はこちら)を建立しました。清衡が、平泉を奥州の新たな中心都市として建設しようとしたねらいはどこにあったのでしょうか。  

 政治的な観点からすれば、安倍氏の支配時代以降、奥六郡の南の玄関口であった衣川柵を越えて、その南の平泉に拠点を移したことは、奥州藤原氏が、奥六郡や仙北三郡の主の地位を超えて、奥州南部にまでその影響力を拡げていったことを意味するものでした。清衡は、物資の流通や人々の交流を盛んにするため、外ヶ浜(青森県東津軽郡)から白河の関(福島県白河市)まで通じる奥州の大動脈として奥大道(おくだいどう)を整備しました。そして平泉は、外ヶ浜と白河の関のちょうど中間点にありました。しかし、清衡のねらいはそれだけではありませんでした。さらに、宗教的な願いも込められていたのです。

 『吾妻鏡』(鎌倉幕府高官編纂の歴史書)によれば、奥州藤原氏滅亡直後に、中尊寺経蔵別当心蓮が中尊寺や毛越寺などの保護と寺領安堵を願って「寺塔已下注文(じとういげのちゅうもん)」という文書を頼朝に提出したとあります。これは、平泉にあった神社仏閣や館などについて仔細に述べたものです。これによれば清衡は、奥州の大動脈となした奥大道に、一町(109.1m)ごとに笠卒塔婆(かさそとうば)を立て、その面に金色の阿弥陀像を図絵させたといいます。また中尊寺の堂塔は、奥大道の道沿いに建てられ、人々に開かれた寺となっていました。街道を旅する人々は、常に仏の慈悲に見守られ、旅の途中に中尊寺をお参りすることが出来ました。奥大道は、いわば「祈りの道」として整備され、長い戦乱によって亡くなった人々を供養して、奥州全土の平和を維持しようという清衡の願いが込められた街道だったといえます。

 清衡が建立した中尊寺伽藍(がらん)には、釈迦如来多宝如来二仏並座の多宝塔、髙さ三丈(約10m)の本尊阿弥陀如来立像、九体の丈六阿弥陀如来坐像の計十体の阿弥陀仏を安置した二階大堂(大長寿院)、半丈六の本尊釈迦如来三尊像と百体の釈迦如来像を安置した釈迦堂、後に清衡はじめ三代の遺体と四代泰衡の首級を納めたとされる金色堂などが建立されました。特に二階大堂の十体の阿弥陀像に清衡の思いが込められていたような気がします。通常の阿弥陀堂では、『観無量寿経』の九品往生思想(くほんおうじょうしそう:人の往生の仕方には9パターンある)に基づき、九体の阿弥陀仏が祀られるそうですが、二階大堂では、十法界(じっぽうかい:仏法界から地獄界までの十の法界)にいる十体の阿弥陀仏に念じることにより、地獄に落ちた殺人者をも救いの対象としたことになります。先の戦いで殺されたものも、やむなく敵を殺してしまったものも、分け隔てなく救いの対象にしようという清衡の願いが感じとれます。また、釈迦堂に安置された101体の釈迦像にも、清衡のこだわりが感じられます。後白河上皇が建立した蓮華王院(三十三間堂)の1,001体の千手観音像など、菩薩像を多数安置する例はいくつかありますが、釈迦如来像を101体も安置する例は非常に珍しいものだそうです(藤原道長の法成寺釈迦堂の例がある)。生きとし生けるものすべてを、確実に救いの道に導きたいという清衡の思いが込められているような気がしてなりません。

 大治元年(1126)、「鎮護国家大伽藍一区」の落成に際して清衡は「供養願文(くようがんもん)」を捧げました。なお「大伽藍一区」については中尊寺伽藍を指すという意見と毛越寺の前身の寺院を指すという意見があります。そこで今はこの事には触れずに、通称である「中尊寺落慶(ちゅうそんじらっけい)供養願文」といわずに、単に「供養願文」ということにします。この「供養願文」は、文章博士(もんじょうはかせ:現在の大学教授)藤原敦光(あつみつ)によって起草されたといわれますが、もちろん清衡の意を受けて書かれたものに違いないと思われます。この願文には、「大伽藍一区」の詳細と、清衡がこの伽藍を造営した目的などが書かれています。現在原文は残っていませんが、14世紀に北畠顕家と藤原輔方(すけかた)が書写したものが残っています。中尊寺の讃衡蔵(さんこうぞう:宝物館)で、北畠顕家が書写した実物を見ることが出来ます。

 願文の中の「二階の鐘楼一棟」の項で清衡は次のように述べています。 「この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きるものすべてのものにあまねく平等に響くのです。(奥州の地では)官軍の兵に限らず、エミシの兵によらず、古来より多くの者の命が失われました。それだけではありません。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚も数限りなく殺されて来ました。命あるものたちの御霊は、今あの世に消え去り、骨も朽ち、それでも奥州の土塊となっておりますが、この鐘を打ち鳴らす度に、罪もなく命を奪われしものたちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものであります。」 (佐藤弘弥氏 現代語訳)

 ここにも清衡の思いがにじみ出ています。戦乱によって失われた命は、官軍の兵であろうが、エミシ(奥州土着の人々)であろうが平等にその霊をなぐさめ、極楽浄土に導かれなければならないとし、そのためには、奥州の地に仏国土を築かねばならないという強い意志が感じられます。

 以上の例から、清衡が仏教都市平泉を建設した真のねらいが見えてきました。奥州全土を巻き込んだ前九年・後三年の戦いで亡くなった多くの人々は、官軍の兵であろうがエミシの兵であろうが戦いに巻き込まれた住民であろうが、皆平等に供養されなければならない。人を殺した兵士といえども、上からの命でやむなく手を下したのだから、同様に救われなければならない。そのために、「祈りの道」の奥大道で奥州全土をつなぎ、その中心に、極楽浄土を演出した大伽藍中尊寺を造営することにしたのです。そして、仏教都市平泉を中心に、奥州全土の統治を安定なものとし、奥州の平和を永遠に持続させようと願っていたに違いありません。この清衡の思いは二代基衡の毛越寺(毛越寺の詳細はこちら)建立、三代秀衡の無量光院(無量光院跡の詳細はこちら)建立によって引き継がれていきました。


この記事は、以下の文献を参考にして作成しました。

  • 高橋 崇著『奥州藤原氏』(中公新書)
  • 斉藤利男著『平泉(北方王国の夢)』(講談社)
  • 高橋克彦著『炎立つ』(講談社)
  • 佐藤 弘氏現代語訳『中尊寺落慶供養願文』
  • 佐藤弘弥氏現代語訳『寺塔已下注文』


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