ー甲斐健の旅日記ー

ヴェルニー公園/日本の近代化に貢献したフランス人技師ヴェルニーの名を冠した公園

目次

 ヴェルニー公園(神奈川県横須賀市)は、フランス式庭園様式を取り入れた都市型の公園です。幕末、海軍力の強化と近代化を目指した徳川幕府は、フランスの若き技術者、フランソワ・レオンス・ヴェルニーを日本に招いて、横須賀造船所(当初は横須賀製鉄所と呼んでいた)の建設計画をスタートさせました。この公園から旧横須賀造船所が一望できることから、造船所建設の責任者だったフランス人技師:ヴェルニーにちなんで名づけられました。

 横須賀製鉄所は、造船用や補修用のドックのみならず、船を建造するために必要なエンジンやボイラー、パイプやシャフト、ボルトや歯車などのあらゆる部品を一貫生産する総合工場でした。このビッグプロジェクトを強力に推進したのが、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)や軍艦奉行を歴任した小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)です。幕府財政が厳しい状況で、幕閣内からは猛烈な反対がありましたが、強い信念のもとに老中らを説得し実現に至りました。忠順が日本に本格的な造船所を建設しようと思い立ったのは、大老・井伊直弼に抜擢されて日米修好通商条約の調印式代表団の一人として渡米したときのことでした。代表団の目付(監察業務)として無事調印式をすませた忠順らは、ワシントンの海軍造船所を見学する機会を得ました。この造船所は、船の建造に必要なあらゆる工業製品(エンジン、ボイラーなどの鉄製品、木工製品、帆やロープなど)を自前で生産できる総合工場でした。しかも、工場を稼働するための動力源は、強大なパワーを生み出す蒸気機関でした。この時忠順は、欧米列強に対して近代化に後れを取っていた日本の現状を再認識し、──これと同じものを日本にもつくりたい──そう固く決意したのでした。

 忠順の強い願いが結実したのは、元冶元年(1864)11月のことでした。老中らの説得に成功した忠順は、盟友の栗本鋤雲(くりもと じょうん)らととも協議し、フランスからの技術提供をはかることとしました。建設予定地を横須賀村に定めた忠順らは、造船所建設の責任者として、上海で砲艦の建造を終えて帰国するところだったフランス人技師・ヴェルニーを迎えることにしました。元冶二年(1865)一月、日仏両国の間で「約定書(やくじょうしょ)」が取り交わされ、横須賀造船所の建設が正式にスタートします。この約定書によれば、建設工事の開始は元冶二年11月、工期は4年で、総費用は240万ドルと見積もられました。   

 その後、大政奉還、戊辰戦争を経て明治新政府が成立しましたが、横須賀造船所の建設計画はその新政府に引き継がれ、明治四年(1871)には第一号ドックが完成しました。しかし、横須賀造船所建設を最も熱望していた小栗忠順は、戊辰戦争の最中に新政府軍の手にかかり殺害され、完成した造船所の姿を見ることはかないませんでした。一方ヴェルニーは、造船所の完成後、造船所が順調に稼働するのを見届けて、明治9年(1876)3月、12年間滞在した日本を離れ、母国フランスへと帰国の途に就きました。

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 ヴェルニー公園は、JR横須賀駅から北に(海側に向かって)徒歩1分のところにあります。横須賀本港に沿ってつくられた臨海公園で、見所も満載です。以下にいくつか紹介します。

ヴェルニー記念館

 公園の西端(駅寄り)にある洋風建築物が、ヴェルニー記念館です。大きな傾斜の屋根や石造りの壁は、ヴェルニーの母国フランスのブルターニュ地方の建物を模して造られました。館内には、ヴェルニーの功績を紹介するパネルや、旧横須賀造船所の写真・配置図などのパネルが展示されています。最大の見どころは、旧造船所で実際に稼働していたスチームハンマーの実物の展示です。スチームハンマーとは、蒸気の力でハンマーを持ち上げ、それを振り下ろすことで金属を鍛造加工する工作機械です。展示されている機械は、1865年にオランダで製作されたもので、プレス圧が3トン(門型)と0.5トン(片持ち)の2基です。いずれも日本で稼働した最古のもので、国指定重要文化財に指定されています。   


戦艦「陸奥」の主砲

 記念館から東に少し歩くと軍艦「陸奥」の主砲が展示されています。陸奥は、旧横須賀海軍工廠(こうしょう:明治36年、横須賀造船所と横須賀兵器廠が合併して誕生)で建造され、大正9年(1920)」に進水した当時としては最新鋭の戦艦で、戦艦「長門」と共に帝国海軍の象徴と言われていました。4基の41cm連射砲を搭載した軍艦は、当時世界でも7隻しか存在せず、「世界7大戦艦」の一つと呼ばれていたといわれます。しかし、太平洋戦争の最中、昭和18年(1943)に原因不明の爆発事故を起こし瀬戸内の海に沈んでしまいます。戦後の昭和45年(1970)に船体の引き揚げ作業が行われ、船体の一部が回収されました。この主砲は、その時回収されたものです。

逸見波止場衛門跡(へみはとば えいもんあと)

 戦艦「陸奥」主砲から東に歩くと、公園管理事務所のすぐそばに、八角形のボックス状の建物が2棟並んで建っています。これらは、旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所の遺構です。高さ約4mで、屋根は銅板葺きのドーム、本体は八角形のコンクリート造りで外壁にはスクラッチタイルが貼られています。昭和4、5年頃に建てられたものです。それぞれの建物には、「逸見上陸場」および「軍港逸見門」と表示されています。当時の面影をしのばせる、レトロな建造物です。

小栗忠順・ヴェルニー胸像

 湾岸沿いに細長く設けられた公園のほぼ中央付近は小栗広場と呼ばれ、小栗忠順とヴェルニーの胸像が並んで建っています。そのすぐそばには、忠順の領地だった上野国権田村(ごんだむら:現・群馬県倉淵村)を流れる烏川水沼河原の石が置かれています。慶応4年(1868)閏4月4日、小栗忠順は、この烏川の河原で側近らと共に新政府軍よって斬首されました。享年42歳でした。

正岡子規碑と海軍石碑

 公園の東側、さくらの広場(2)と呼ばれるエリアに、正岡子規文学碑や軍艦の碑などが並んで建っています。

●正岡子規文学碑

 「横須賀や只帆檣(はんしょう:帆柱の意)の冬木立」と刻まれています。明治21年(1888)、夏季休暇を利用して友人と横須賀を訪れたときに詠んだ歌です。横須賀港に停泊している多くの船舶の帆柱を、葉をすっかり落とした冬木立に見立てて詠んだものです。句集「寒山落木」に収録されています。こののち鎌倉に入った子規は、暴風雨に見舞われ季節外れの寒さに体調を崩し、初めて喀血したといいます。夏の終わりに詠んだ「冬木立」の歌は、このときの子規の思いを表現したものでしょうか。

●軍艦沖島の碑

 沖島は、昭和11年(1936)に竣工された大型の機雷敷設艦(きらい ふせつかん)です。6号機雷を500個も搭載できたといいます。太平洋戦争に従軍していましたが、昭和17年(1942)、ソロモン諸島沖で米国潜水艦に魚雷攻撃され沈没しました。

●軍艦長門の碑

 長門は、大正9年(1920)11月に竣工した戦艦です。当時としては世界最大の41㎝砲を搭載し、最大航行速度も26.5ノット(時速49km)と機動力抜群でした。太平洋戦争開戦時は連合艦隊の旗艦として、司令長官・山本五十六元帥が座乗していました。太平洋戦争は生き延びたのですが、戦後アメリカ軍に接収され、昭和21年(1946)7月、ビキニ環礁の原爆実験の標的艦として投入され沈没し、その生涯を終えました。

●軍艦山城の碑

 山城は、大正6年(1917)3月に竣工した戦艦です。戦艦・山城も太平洋戦争に従軍しましたが、日本の敗戦が濃厚となっていた昭和19年(1945)10月、フィリピン・レイテ島沖海戦で、圧倒的な戦力を誇る米艦隊に集中砲火を浴び沈没してしまいました。山城に乗り込んでいた1,500名の兵は海に投げ出されました。そのうち米軍に救出されたのはわずかに10名のみで、漂流していた多くの乗組員は、米軍の救助を拒否し海のもくずとなって消えていったといいます。

よこすか近代遺産ミュージアム・ ティボディエ邸

 公園の東端、イタリアンレストランの隣に、よこすか近代遺産ミュージアムがあります。木骨レンガ造りの洋風の建物は、横須賀製鉄所・副所長のジュール・セザール・クロード・ティボディエが住んでいた官舎(明治2年建築、平成15年老朽化により取り壊し)を再現したものです。令和3年(2021)5月にオープンしました。館内のシアターでは、幕末から明治初期にかけての歴史上のトピックスをテーマにしたムービーが上映されています。令和5年(2023)6月には、「黒船来航と日本の近代化(日本編)」と「ペリーと日本開国(ペリー編)」の2本が上映されていました(有料:200円)。パネル展示では、横須賀製鉄所に関する歴史や横須賀市の発展の歩みについて紹介されています。さらには当時の貴重な資料が数多く展示されています。特に目を引いたのが、「小栗のネジ」です。日米修好通商条約調印の代表団の一人として渡米した小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)は、ワシントンの海軍造船所を見学し、その規模と最新技術のすごさに圧倒されました。日本の近代化を推し進め欧米列強に追いつくためにも、──これと同じものを日本にもつくりたい──そう強く願ったのでした。そして、船舶組み立てに使う「ネジ」をもらい受け、大切に持ち帰りました。最新技術を取り入れ、部品製造から船舶組み立てまで一貫生産する総合工場を日本に建設する──そんな忠順の熱意が、このネジにも乗り移っているかのように思われます。その実物を前にして、身震いするような感動を覚えました。

うみかぜの路

 海岸沿いに設けられたボードウオーク(木の板張りでつくられた遊歩道)は、「うみなりの路」と呼ばれています。板張りの路は歩きやすく、潮風も気持ちよく、快適な散歩コースです。海を隔てた対岸には、現在の横須賀造船所の第一~第三ドライドックを臨むことができます。


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<筆者紹介>

山梨の地から発信 しています。電機メーカーの技術者を経て今はリタイヤし、山梨のうまい空気を吸いながら、のんびりとセカンドライフを楽しんでいます。暇さえあれば、カメラ片手に出かけ、歴史探訪の旅としゃれこんでいます。掲載中の記事について何かご意見やご指摘等ありましたら、下記「入力フォーム」をご利用のうえ連絡していただければ幸いです。

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