ー甲斐健の旅日記ー

東善寺/「明治の父」
小栗上野介忠順が眠る寺

目次

 東善寺は、群馬県高崎市にある曹洞宗のお寺です。山号は「諏訪山」です。寛永10年(1633)に創建されたといわれます。ご本尊は、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ:お釈迦様)です。その後寺勢は衰えていましたが、江戸時代中期の宝永元年(1704)、旗本・小栗政信がこの地に所領を得て中興しました。その小栗家の子孫で、幕末、日本の近代化に貢献した小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)の墓所があることでも知られています。寺紋は、小栗家の家紋と同じ「丸に立波」です。

 小栗忠順は、幕末期に勘定奉行や陸軍奉行並、海軍奉行並などを務め、日本の近代化に大きく貢献した人物の一人です。特に、部品製造から船舶の組み立てまで一貫生産できる総合工場としての横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設を推進し、日本の海防能力向上のみならず、近代産業の発展と国産技術力の向上に貢献しました。さらには、日本初の総合商社(「兵庫商社」)の設立にも関わり、そこから得られる利益をもとに、鉄道敷設、ガス灯普及、郵便・通信制度などのインフラ整備も計画していました。これらの施策はすべて明治新政府に引き継がれ、時代を超えて実現しています。作家・司馬遼太郎氏は、その著書『明治という国家』で小栗のことを「明治国家の父の一人」と書いて評価しています。

 徳川最後の将軍・徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いで敗色濃厚となって江戸に逃げ帰った時、忠順は徹底抗戦を主張して将軍・徳川慶喜に強く迫りました。しかし、新政府軍に対して恭順の姿勢を崩さない慶喜を説得することはかないませんでした。失意のうちに忠順は、土着願書を提出して所領だった上野国権田村(現・群馬県高崎市倉渕町)に移り住むことを決めました。一旦は東善寺に仮住まいをし、観音山に住宅建設をして、第二の人生を静かに送る準備をしていました。ところが、新政府軍にとって忠順は脅威の存在だったのです。慶応4年(1868)閏4月4日、新政府・東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎、原保太郎らによって、ここ東善寺で捕縛されてしまいます。そして、何ら弁明を許されず、翌々日の朝、烏川の水沼河原(現・群馬県高崎市倉渕町)で家臣らと共に斬首されました。享年42歳でした。

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 東善寺へは、公共交通機関ですと、JR高崎駅からバス利用となります。高崎駅西口から定期バス(群馬バス)室田」行に乗って「室田営業所」で下車し、ぐるりんバス・倉渕線(系統番号26 権田車庫行き)に乗り換えて「権田寺前」で下車すると徒歩1分です。ここでは、東善寺境内の見どころをいくつか紹介します。

小栗忠順・栗本鋤雲(じょうん)胸像

 境内には、小栗忠順・栗本鋤雲の胸像があります。栗本鋤雲は忠順の盟友で、医師から幕府の高官にまで昇りつめた人物です。特に横須賀製鉄所の建設にあたっては、忠順の右腕となって活躍しました。フランス語が堪能だった鋤雲は、フランスから技術的経済的支援を受けるための交渉役として、大車輪の活躍をしました。胸像の傍らにはシャクヤクの花が植えられており、5月ごろには美しい花を咲かせるそうです。

小栗公遺品館

 小栗忠順に関する貴重な遺品や資料が展示されています。

などなどです。

小栗忠順親子の墓

 東善寺境内には小栗忠順・又一父子の墓があります。明治初年に権田村の人々によって建立されました。父子の墓の両脇には、家臣や家族の墓が並んでいます。この墓は供養墓です。ここから階段を上った先(数分程度)に、亡きがらが埋葬された本墓があります。

小栗椿

 境内の小栗忠順・又一父子の供養墓の傍らに、一本のツバキの木があります。樹齢百数十年といわれる崑崙黒(こんろんこく)という名の黒椿です。忠順が江戸を離れて権田村に移り住んだとき、江戸・駿河台の小栗邸(現・東京都千代田区神田駿河台1-8)にあったものを、この地に運び込んで植樹したといわれます。毎年春には、黒椿の花が見事に咲き乱れるそうです。


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<筆者紹介>

山梨の地から発信 しています。電機メーカーの技術者を経て今はリタイヤし、山梨のうまい空気を吸いながら、のんびりとセカンドライフを楽しんでいます。暇さえあれば、カメラ片手に出かけ、歴史探訪の旅としゃれこんでいます。掲載中の記事について何かご意見やご指摘等ありましたら、下記「入力フォーム」をご利用のうえ連絡していただければ幸いです。

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